2023年12月14日木曜日

宮沢賢治『北守将軍と三人兄弟の医者』__凱旋将軍の最期

  賢治の童話中数少ない完成された作品で、一九三一年雑誌「児童文学」に発表されたものである。この作品の初稿とみられる『三人兄弟の医者と北守将軍』という童話も活字化されていて、こちらはおそらく一九二〇年までに書かれたものだといわれている。岩波文庫版でわずか十頁の短編が、推敲を重ねられ完成まで十年を要したということが興味深い。七五調の韻文で軽快に語られる物語は、起承転結むだをそぎ落としてなおかつ余韻を残す珠玉の掌編となっている。

 それだけに、どこから切り込んでいけるのか、とっかかりがつかめないのだ。あまりに完璧に作品化されて賢治の肉声を漏れ聞くことが容易でない、といったほうがいいかもしれない。

 「むかしラユーという首都に、兄弟三人の医者がいた」と始まるこの童話の舞台はおそらく中国あるいはより広くユーラシア大陸のどこかであり、時代も現代ではないようである。作中晩唐の詩人張蠙の詩「過蕭關」にヒントを得たと推測されるエピソードが語られているので、千年ほど昔の時代設定かもしれない。

 時も所も茫洋とした彼方の「ラユーという首都」を「九万人」という「雲霞の軍勢」がとり囲む。町中ざわめき緊張が走るが、この軍勢は実は「三十年という黄いろなむかし」に「この門をくぐって威張って行った」「十万の軍勢」が一割減って戻って来たものだった。しかし、なんとも異様な軍団だった。兵隊たちは「みな灰いろでぼさぼさして、なんだかけむりのよう」で、彼らをひきいるのが「するどい目をして、ひげが二いろまっ白な背中のまがった大将北守将軍ソンバーユ」である。

 ソンバーユと兵隊たちは塞外の砂漠で三十年間いくさをしていたのである。だが、彼らは敵とたたかって勝って凱旋したのではない。兵隊たちは歌う

 「みそかの晩とついたちは
  砂漠に黒い月が立つ
  西と南の風の夜は
  月は冬でもまっ赤だよ
  雁が高みを飛ぶときは
  敵が遠くへ逃げるのだ
  追おうと馬にまたがれば
  にわかに雪がどしゃぶりだ」

 「雪の降る日はひるまでも
  そらはいちめんまっくらで
  わずかに雁の行くみちが
  ぼんやり白くみえるのだ
  砂がこごえて飛んできて
  枯れたよもぎをひっこぬく
  抜けたよもぎは次々と
  都の方へ飛んでいく」

 荒涼として陰惨なのは砂漠の実景であると同時に兵士たちの心象であろう。ソン将軍と兵隊たちは、北の砂漠の厳しい自然とたたかい続けるうちに、たまたま敵が全員脚気で死んだので、故郷に戻ることができたのだ。敵は今年の夏の異常な湿気でダメージを受け、さらにこちらを追いかけて砂を走りすぎて脚気になったのだとソン将軍は歌う。敵も味方も過酷な自然とたたかいながら、追いつ追われつ砂漠をさすらった三十年だった。

 そしてソン将軍は「凱旋」したのである。九万の兵隊たちをひき連れて。十万の兵士はたった一割しか減らなかった。まさに奇跡の生還で、ソン将軍は真の英雄である。

 「三十年の間には たとえいくさに行かなくたって 一割ぐらいは死ぬんじゃないか」

 平和なはずの日本の今はもっとたくさん死んでいるような気がするが、それはともかく、ラユーの町は歓喜でわきたった。王宮に知らせが行って、迎えの使者がやってくる。ところがここで大変なことが起きる。一礼して馬から降りようとしたソン将軍の両足が馬の鞍につき、鞍は馬の背中にくっついて、ソン将軍はどうしても馬から降りることができない。

作者は将軍のこの状態を 

「ああこれこそじつに将軍が、三十年も、国境の乾いた砂漠のなかで、重いつとめを肩に負い、一度も馬をおりないために、馬とひとつになったのだ。」

と説明するが、そんな特殊な状況は「鮒よりひどい近眼」の迎いの大臣にわかるはずがない。馬から降りずにあわてて手をばたばたさせる将軍を見て、謀反を起こそうとしていると判断してひきあげてしまう。

 茫然自失の将軍は、しばらくすると気を取り直し、軍師に向かって、鎧兜を脱いで将軍の刀と弓をもって王宮に行き、事情を説明するよう指示する。そのうえで自分は医者に行くと言う。もはや自力では 馬から降りることは不可能だと悟ったのだ。ソン将軍は馬に鞭うち、馬は最後の力をふりしぼって駆け、名医リンパー先生の病院に入る。

 騎乗のまま病院に入り込んだソン将軍は、性急に診察を受けようとするが、相手にされない。怒ったソン将軍が鞭を上げると馬は跳ね、周りの病人たちは泣きだしてしまう。それでもリンパー先生は一顧だにしないが、先生の右手から黄の綾を着た娘が出てきて、花びんの花を一枝とって馬に食べさせる。ぱくっとかんだ馬は、大きな息をしたかと思うと足を折ってぐうぐう眠ってしまう。

 馬が死んでしまうと思ったソン将軍は、なんとか生き返らせようと塩の袋をとりだすが、やっぱり馬はねむっている。三十年間生死をともにした馬だけはどうかみてほしい、と哀願する将軍に、はじめてリンパー先生は振り向いて、馬は、ソン将軍をみるためにすわらせたので、まもなくなおると言う。

 リンパー先生の見立てでは、ソン将軍は「今でもまだ少し、砂漠のためにつかれている」のである。ソン将軍のいうことには、十万近い軍勢が、きつねにだまされ、「夜にたくさん火をともしたり、昼間砂漠の上に、大きな海をこしらえて、城や何かも出したりする」。また「砂こつ」という鳥が、馬のしっぽを抜いたり、目をねらったり、襲撃を試みる。「砂こつ」を見ると、馬は恐怖でふるえてあるけなくなってしまうというのだ。

 こうした砂漠の生活で、ソン将軍は数の把握をくるわせ、実際よりも一割少ない数を認識してしまっている。そこでリンパー先生は、二種類の薬を使って、まずソン将軍の兜をはずし、次に頭を洗うと将軍の「熊より白い」白髪が輝いて、頭はすっきり正常になる。リンパー先生のいうには「つまり頭の目がふさがって、一割いけなかった」のである。

 頭を正常にすることで、ソン将軍は武装解除された。だが、まだ馬から降りることはできなかった。「ずぼんが鞍につき、鞍がまた馬についたのをはなすというのは別」で、次は馬の武装解除をしなければならない。それは、リンパー先生の弟のリンプー先生の治療になる。

 となりのけしの畑をふみつけてリンプー先生の建物に入って行ったソン将軍は、リンプー先生に馬の年齢を聞かれて「四捨五入してやっぱり三十九」だという。九歳から三十年間ソン将軍と一体で砂漠を駆けていた白馬に、リンプー先生が「赤い小さな餅」を食べさせると、馬はがたがたふるえながら、体中から汗とけむりを吹き出した。けむりが消えて、滝の汗がながれだすと、リンプー先生が両手を馬の鞍にあててゆさぶる。たちまち鞍は馬から外れ、将軍の体もすっかりはなれる。最後にリンプー先生が、ほうきのようなしっぽを持って引っぱると、尾の形をした塊が床に落ち、馬はかろやかに、毛だけになったしっぽをふっている。そしてぎちぎち膝を鳴らすこともなく、しずかに歩きだす。馬も軍務から解放されて、本来の馬にもどったのだ。

 最後はリンポー先生が、将軍と兵隊たちの「顔や手や、まるで一面に生えた灰いろをしたふしぎなもの」の始末をした。この「灰いろをしたふしぎなもの」については、王敏という学者が『宮沢賢治、中国に翔る想い』という著書の中で卓見を述べておられる。

 「支那を戦場に想定した『北守将軍と三人の兄弟医者』にある「灰いろ」は怨霊を潜ませた死の色であり、生存者の十字架であろう」

 灰いろが「死の色であり、生存者の十字架」であるとはまさにその通りだが、きわめて抽象度の高い表現である。私見では「灰いろをしたふしぎなもの」とは、脚気で死んだという敵兵の昇華され得ない魂が、砂漠の中で唯一生気のあるところに住みついたものではないか。だとすると、三人の兄弟医者の中でもっとも簡略にかたられているポー先生の役割は、もしかしたら、もっとも重要なものだったのかもしれない。

 ポー先生が「黄いろな粉」を将軍の顔から肩にふりかけて、うちわであおぐと、将軍の顔じゅうの毛がまっ赤にかわり、「ふしぎなもの」はみんなふわふわ飛び出して、将軍の顔はつるつるになった。このときはじめて将軍は三十年ぶりににっこりする。「からだもかるくなったでのう。」ソン将軍はうれしくなって、はやてのように飛び出して、兵隊たちの待つ広場へむかう。その後、ポー先生の弟子が六人、兵隊たちの毛をとるために薬とうちわを持って将軍のあとを追う。

 広場で合流したソン将軍と九万の兵隊たちは、王宮へ粛々と行進する。馬をおりたソン将軍が壇上で叩頭すると、王はねぎらいのことばをかけ、さらに忠勤をはげんでくれという。だが、将軍は、自分はもはやその任に堪えないので、暇をもらって郷里に帰りたい、といって自分の代わりに四人の大将と三人の兄弟医者の名をあげる。さっそく王に許された将軍は、その場で鎧兜をぬいで、薄い麻の服を着る。

 将軍は、それから故郷の村のス山のふもとへ帰って、粟をまいたり間引いたりしていたが、だんだんものを食べなくなり、それから水も飲まなくなった。ときどき空を見上げてしゃっくりみたいな形をしていたが、そのうち姿を消してしまう。みんなは将軍さまは仙人になった、とまつりあげるが、国守になったリンパー先生は否定する。「肺と胃の腑は同じでない。」つまりは自死したことを示唆したのである。

 淡々と、軽妙にリズミカルな韻文形式で最後までかたりきって破綻のないこの作品を読了して、どうしてもここから「何か」をつかみだせなかった。前述の王敏氏は、漢文学に非常に造詣の深い方で、『宮沢賢治、中国に翔る想い』の中で、この作品に影響を与えた、もしくは読解のヒントとなる漢詩を随所に引用されている。大変参考にさせていただいたが、それでもなお、「何か」に逃げられているような気がして、ながいこと文章が書けなかった。

 いまも同じ思いなのだが、あえてことばにしてみると、これはあまりにも美しいお伽話である。前回とりあげた『飢餓陣営』が「コミックオペレット」と表記して、戦場のリアルな悲惨を戯曲化したのにたいして、『北守将軍と三人の兄弟医者』は、現実にはありえない出来事を神話化した。敵が全員自滅したので、九割の兵力を保存して帰還する。しかも、「北の砂漠」という過酷な自然環境に三十年さらされながらの攻防である。これを奇跡と呼ばずにいられようか。

 だが、私の関心はこの奇跡そのものにあるのではない。奇跡を成し遂げた英雄ソンバーユの最期である。故郷の「ス山」のふもとに帰って、自死した将軍のモデルはだれか。中国の歴史は絶え間ない異民族の侵入とのたたかいだったから、遠く辺境の地に赴いて、二度と故郷の土を踏むことができない人は数えきれないほど存在した。だが、生きて帰還して、そのあと自死したソン将軍のような軍人はいただろうか。しかも、みずから食を断つ、という自裁の方法で。飢餓による緩慢な死は、一気に命を絶つ自刃や縊死よりもむしろ残酷でつらい方法だろう。霞を食べる仙人の美しいお伽話のかたり口で、じつは無残な死を凱旋将軍に選ばせた作者の意図はどこにあったのか。

 最後にまたもや蛇足をひとつ。なぜソンバーユは「北」守将軍なのか。南でも東でも西でもなく。王敏氏の論のように作品の舞台が中国大陸であるならば塞外の辺境は多く「西」域である。だが、『風の又三郎』のラストに顕著なように、賢治の関心はつねに「北」の地にあるようだ。

 凱旋将軍のモデルは意外と賢治と同時代に近い人物だったのかもしれない。

 前回の投稿からこれほどの月日が経ってしまったのは、ひとえに私の怠惰によるものです。容易に隙を見せない賢治の完璧主義が生半可なアプローチを寄せつけなかった、というのは私の言い訳にもならない泣きごとです。日清戦争の二年後に生まれ、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、とほぼ十年ごとの戦争を経験し、辛亥革命、ロシア革命と二度の革命(という名の戦争)を目の当たりに見た賢治の時代意識はどんなものだったのか。作品を読むことによって知るしかすべはないのでしょうけれど。

 とりとめもない雑文を読んでくださって、ありがとうございました。

 

2023年7月30日日曜日

宮澤賢治『飢餓陣営』__国家の超克とキリスト教への接近__オペレッタで語る極限状況

  宮澤賢治『飢餓陣営』について、いつまでも考えている。

 「コミック オペレット」と注がついた一幕物の戯曲である。主人公の名をとって「バナナン大将」という題名のものが一九二二年六月に作られ、翌一九二三年五月、花巻農学校が県立となった開校式の日に上演された。賢治は当時この農学校の教師であり、記念としてこの劇と、もうひとつやはり自作の『植物医師』という劇を、みずから演出し生徒を俳優にして上演している。県立高校として出発する開校式の舞台で演じられたこの二つの劇はかなり不穏な要素がおりこまれているが、観客はどのように鑑賞したのだろうか。

 『植物医師』のあらすじは、上官を殴って退職した元役人が、枯れた陸稲をもって次々相談に来る農民たちに生半可な知識で亜ヒ酸を売りつけ、亜ヒ酸で陸稲を全滅させてしまうのだが、なぜか農民たちは元役人を許してしまう。「一年旱魃の事もあるから」、と全滅の陸稲をあきらめるのである。「植物医師」をかたる「爾薩待正」という不思議な名前の元役人の軽薄な詐欺師ぶりと、「医者さんもあんまりがおれないで、折角みっしりやったらよがべ」と「植物医師」をゆるしてはげます農民の不気味な諦念が印象的である。「郷土喜劇」と名付けたこの戯曲の農民のセリフは徹底して方言が用いられている。

 戯曲『飢餓陣営』は、餓死寸前の兵士たちが大将が身につけた勲章を食べてしまうという奇想天外な話である。

 舞台は「砲弾にて破損せる古き穀倉の内部、からくも全滅を免れしバナナン軍団、マルトン原の臨時幕営」と設定される。ここに、舞台の左右から曹長、特務曹長を先頭に兵士が六人ずつ登場し、それぞれに大将の不在と自分たちの飢餓を訴え、退場する。一時半、二時、四時、四時半と時が刻まれ、そのつど兵士たちは舞台に現れて空腹を訴え、退場する。状況は変わらず、七時半、八時と夜になって、兵士たちの疲労と衰弱は甚だしいものがある。かろうじて立っていられる兵士たちは

 「いくさで死ぬならあきらめもするが
  いまごろ餓えて死にたくはない
  ああただひときれこの世のなごりに
  バナナかなにかを 食いたいな。」

と合唱して、その後全員倒れてしまう。銅鑼が鳴る。

 そしてバナナン大将が登場する。「バナナのエポレットを飾り、菓子の勲章を胸に満たせり。」といういでたちである。幕営に兵士たちを残して、どこへ行っていたかわからないが、「いったいすこうし飲み過ぎたのだし
 馬肉もあんまり食いすぎた」
と、自分だけたらふく飲み食いしてきたようである。あげく、「つかれたつかれたすっかりつかれた」と言って、真っ暗な中で倒れている兵士たちを「灯をつけろ、間抜けめ。」と罵り、かろうじて立ちあがった彼らをみて「どれもみんなまるで泥人形だ。」と何の同情もない。

 悲惨な状況設定であり、不思議でもある。敗色濃厚な戦場で糧食もなく餓死寸前で「泥人形のよう」になってしまった部下を残して、大将が幕営を後にして出かけたのは何故だろう。食料を調達するために周辺を探したのか。残された曹長と特務曹長は
「大将ひとりでどこかの並み木の
 りんごをたたいているかもしれない
 大将いまごろどこかのはたけで
 にんじんがりがり、かんでるぞ。」
と想像しているのだが、そもそも大将は菓子でできた勲章で身を飾っているのだから、すくなくとも自分は食料を調達する必要はないはずである。

 ともかく、バナナン大将は、自分だけどこかでゲップするまで飲み食いしてきて、眠りこけてしまう。これが「コミック オペレット」と銘打たれた劇の出だしである。敗残の兵士たちの切実な飢餓と対照的な大将の満腹感がリアルに描かれている。だが、同時に大将の勲章が菓子でできている、というあり得ない設定があって、観客はその不条理をかかえたまま劇の進行についてゆくしかない。

 兵士たちは、眠り込んだ大将の勲章を食べたいという欲求を抑えられない。曹長は「大将の勲章を食べるいうわけにはいかないか」と特務曹長に問い、特務曹長は「軍人が名誉ある勲章を食ってしまうという前例はない。」し、「食ったら軍法会議」で「銃殺にきまっている。」と答える。「軍法会議」だの「銃殺」だの、リアルな恐怖をあたえることばだが、そもそも「軍人が名誉ある勲章を食ってしまうという」「前例」がないのではなく、「勲章を食ってしまう」ことが「不可能」なのである。このあたりから、役者が深刻な状況を真面目に演じると、それがそのまま、現実の感覚とちぐはぐでおかしいのだ。

 「不可能」だから「前例はない」のだが、ともかく「銃殺」ということばを聞いて、兵士一同はまた倒れてしまう。そこで、曹長が意を決して、自分一人が責任を被って銃殺されるから、将軍の勲章とエポレットを盗み、一同で食べようと申し出る。すると、特務曹長も自分もいっしょにやって、十の生命の代わりに二人の命を投げ出そうと言い、兵士たちに号令をかけて集合させる。そして勲章やエポレットを「盗む」のはよくないから「もっと正々堂々とやらなくちゃいけない。」と言うのだが、これもなんだかおかしい。「正々堂々と」大将を騙すのだから。

 特務曹長は勲章を拝見といって、バナナン大将に勲章十個とエポレット二個を外させ、自分を含めた兵士一同で食べてしまう。身につけた勲章が全部食べられてしまうまでバナナン大将が気がつかないのは不自然なようだが、舞台上でどんな演出がなされたのだろうか。

 バナナン大将が身に着けていた勲章とその由来は次の通りである。
1・獅子奮迅章。バナナン大将はロンテンブナール勲章ともいっている。インド戦争で受領。ザラメ入り。
2・ファンテプラーク章。シナのニコチン戦役でもらう。
3・チベット戦争でもらった勲章。チベット馬のしるしがついている。
4・普仏戦争の勲章。ナポレオン・ボナパルトの首のしるしつき。六十銭で買ったもの。
5・アメリカの勲章。ニュウヨウクのメリケン粉株式会社から贈られたもの。
6・シナの大将と豚五匹でとりかえたもの。ハムサンドウィッチ(そのもの?)
7・むすこからとりかえした勲章(?)立派なものらしい。
8・モナコ王国でばくちの番をしたときもらった勲章。
9・手製の勲章。
10・アフガニスタンでマラソン競争をして獲得したもの。

 以上、ユーラシア大陸から太平洋をはさんでアメリカまで、バナナン大将は世界中の戦場を渡り歩いて収集したようである。戦闘行為に参加して手にしたものではない勲章も含まれているところがおかしいが、そうやって獲得した勲章はすべて特務曹長の手から兵士たちの胃袋におさまってしまう。さらに

11・イタリアごろつき組合から贈られたジゴマと書かれた勲章は曹長が嚥下し
12・ベルギ戦役、マイナス十五里進行の際、スレジンゲトンの街道で拾った勲章。少し馬の糞がついているもの、とあるのは特務曹長みずから嚥下する。

 最後に、特務曹長はバナナン大将が両肩につけたバナナのエポレットも外させ、十二人の兵士全員で食べてしまう。勲章も肩章もすべて食べられて、はじめてバナナン大将は自分が無一物になったことに気がついて動揺する。一方兵士たちは飢餓から回復すると、罪の意識に苛まれる。兵士たちは「将軍と国家に」おわびの方法がないのでみんなで死のう、という。それにたいして、曹長と特務曹長は、勲章を食べることを発案した自分たちが悪いので、二人が責任を取って死ぬが、他の兵士たちは将軍の指示に従うように言って、号令をかける。

 そして、特務曹長がピストルを出し、
 「飢餓陣営のたそがれの中
 犯せる罪はいと深し
 ああ夜のそらの青き火もて
 われらが罪をきよめたまえ。」
と祈ると、曹長も
 「マルトン原のかなしみのなか
 ひかりはつちにうずもれぬ
 ああみめぐみのあめをくだし
 われらがつみをゆるしたまえ。」
祈り、さらに兵士一同合唱で
 「ああみめぐみの雨をくだし
 われらがつみをゆるしたまえ。」
と祈るのである。

 この祈りの詞は文字で読んでも、「コミックオペレット」には重すぎる印象だが、実際に劇中で歌われた曲を採譜して演奏したものを聞くと、讃美歌あるいは聖歌の響きがある。荘重で、暗く、あきらかにキリスト教の調べなのが異様である。

 特務曹長がピストルを擬して、まさに自殺しようとする。すると、これまで瞑目していたバナナン大将は即座に立ち上がり、特務曹長のピストルを奪う。そして、言う。

 「もうわかった。お前たちの心底は見届けた。お前たちの誠心に比べては俺の勲章などは実になんでもないんじゃ。
 おお神はほめられよ。実におん眼からみそなわすならば、勲章やエポレットなどは瓦礫にも等しいじゃ。」

 餓えと疲労で倒れる寸前だった兵士たちを「泥人形」と罵ったバナナン大将の突然の変化にとまどいを覚えざるをえないが、とまどうのはそれだけではない。「国家と将軍」に死んでわびようとしている兵士たちと、じぶんたち二人の死をもって償いをしようとする特務曹長と曹長に対して、
 「お前たちの誠心に比べてはおれの勲章などは実になんでもないんじゃ。」というバナナン大将の言葉は軍と国家の規範を完全に否定するものである。さらにバナナン大将は
 「おお神はほめられよ。実におん眼からみそなわすならば、勲章やエポレットなどは瓦礫にも等しいじゃ。」
と「神」という概念を至高のものとする価値観を堂々と開陳する。この論理あるいは倫理が県立学校の開校式で上演される演劇で語られるのも異様というべきである。

 兵士たちの祈りのことばにある「つみ」と「きよめ」「ゆるし」にも微妙な違和感を覚える。「きよめ」は「けがれ」と対で使われることが多いが、「つみ」を「きよめ」るのはキリスト教の概念であり、「ゆるし」もまたそうである。

 だから、バナナン大将が「神のみ力を受けて」発明した「生産体操」という果樹製枝法を兵士たちに体現させて、最後の「棚仕立て」でつくった棚の下で「琥珀の実」と「新鮮なエステルにみちた甘いつめたい汁でいっぱい」の果物を収穫する行為は、イエスが五つのパンと二つの小魚で五千人の群衆を満腹にさせたという奇跡と同じ文脈で考えなければならないだろう。

 最後の合唱は
 「・・・・・・・・・・・・
  あわれ二人の つわものは 
  責めに死なんと したりしに
  このとき雲のかなたより
  神ははるかにみそなわし
  くだしたまえる みめぐみは
  新式生産体操ぞ。
  ・・・・・・・・・・・・・
  ひかりのごとく くだりこし
  天の果実を いかにせん
  みさかえはあれ かがやきの
  あめとしめりの くろつちに
  みさかえはあれ かがやきの
  あめとしめりの くろつちに」
と結ばれるが、これも讃美歌98番
 「あめにはさかえみ神にあれや。つちにはやすき人にあれやと」にみるように「あめ」「みさかえ」「つち」と多くの讃美歌と共通の語がつかわれている。先の兵士の祈りの中にある「みめぐみ」もまた讃美歌539番
 「あめつちこぞりて かしこみたたえよ
  みめぐみあふるる 父みこみたまを。」
とキリスト教に特徴的ないいまわしである。

蛇足だが、特務曹長以下兵士が「十二人」というのも象徴的である。実は、特務曹長がバナナン大将に「かの巨大なるバナナン軍団のただ十六人の生存者・・・」というくだりがあるが、兵士十二人とバナナン大将を合わせた人数はどう計算しても十三人で数字があわないのだ。舞台に登場しない三人はどこにいるのだろう。兵士の数を十二人としたのに意味があるのはわかるが、なぜ敢えて、生存者と不一致の人数にしたのかが謎である。

 賢治のここまでのキリスト教への接近は何を意味するのだろう。

 結局何も解決できないで時間ばかり経ってしまいました。時代と賢治を理解する原点に戻ってきたという感じです。暑さと農作業にかまけて、なかなか先にすすめませんが、なんとか時間をつくって読みつづけたいと思っています。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございました。

2023年3月18日土曜日

宮澤賢治『氷河鼠の毛皮』__中途半端な革命譚__タイチと黒狐、氷河鼠

  タイチという金満家の男が、ベーリング(島?海?)をめざす列車の中で暴漢に襲われるが、船乗りの若者に救われる。稀少毛皮を外套にして幾重にも身にまとっていたことが、人だか熊だか判然としない暴漢たちに襲われた理由である。宗教学者の中沢新一は、『緑の資本主義』という著作の中でこの作品をとりあげ、「圧倒的な非対称」という章をもうけて論じている。中沢はタイチを襲う暴漢たちを熊とみなして、文明を作り上げた人間と動物の関係が「圧倒的な非対称」であり、この襲撃は「動物たちの人間へのテロ」であるという。多くの読者がすんなり納得させられる解析のように思われるが、はたしてそうか。

 十二月二十六日クリスマスの翌夜である。外は吹雪に閉ざされているが、イーハトーヴの停車場は暖炉の火が赤く燃え、暖炉の前に「最大急行」「ベーリング行」の乗客が「まっ黒に」立っている。夜八時汽罐車は汽笛とともに出発する。

 乗客は十五人。タイチはその中で最も太っていて、二人前の席をとっている。赤ら顔で「アラスカ産の金」の指輪をはめ、幾重にも毛皮をまとい、いかにも金に埋もれている様子だが、「十連発のぴかぴかする素敵な鉄砲」を持っているので、狩猟家でもある。向いの席の役人らしい紳士との会話で、今回のベーリング行で、黒狐の毛皮九百枚を持って来て見せるという賭けをしたといっている。

 乗客の多くは、タイチほどではなくても、同じように立派な身なりの紳士たちだったが、異質な人間が二人いた。一人は「北極狐のやうにきょとんとすまして腰を掛け」た「痩た赤いげの人」で、もう一人は「かたい帆布の上着を着て愉快さうに自分にだけ聞えるやうにな微かな口笛を吹いてゐる若い船乗りらしい男」である。しばらくすると、船乗りの青年は自分の窓のカーテンを上げ、窓に凍り付いた氷をナイフで削り、外の景色を見ていたが、「何か月に話し掛けてゐるかとも思はれ」るように「笑ふやうに又泣くやうに」かすかに唇をうごかしていた。

 痩た赤ひげの男は「熊の方の間諜」だった。タイチが役人風の男にいでたちの自慢をしているのを盗み聞きしていたのである。「イーハトーヴの冬の着物の上に、ラッコ裏の内外套ね、海狸の中外套根、黒狐表裏の外外套ね。」「それから北極兄弟商会の緩慢燃焼外套ね………。」「それから氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでこさえた上着ね。」とタイチの自慢は際限もないが、さらに、今回黒狐の毛皮九百枚持って来てみせるという賭けをしたという。

 「ウヰスキーの小さなコップを十二ばかりやり」酔いがまわったタイチはあたりかまわずくだを巻きはじめる。他人の毛皮を贋物だとケチをつけたり、黄色の帆布一枚の若者に毛皮の外套を貸すと言って無視されたりしている。他の乗客は眠りについていて、起きているのは、聴き耳を立てて何か書きつけていた赤ひげの男と船乗りの青年だけだった。

 夜が明けると急に汽車がとまり、形相を変えピストルをつきつけた赤ひげの男を先頭に「二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊といった方がいゝやうな、いや白熊といふよりは雪狐と云った方がいいやうなすてきにもくもくした毛皮を着た、いや着たといふよりは毛皮で皮ができているというた方がいゝやうな、もの」が仮面をかぶったり顔をかくしながら車室の中に入って来る。人だか熊だか雪狐だかわからない集団は、赤ひげの男の告発でタイチを拉致しようとする。先頭から三番目のものが、タイチのことを「こいつだな、電氣網をテルマの岸に張らせやがったやつは」と指摘しているので、赤ひげが告発するより前にタイチの存在は集団に知られていたようである。

 押されたり引きずられたりしながら、扉の外へ出されそうになったタイチを救ったのは黄色の帆布を着た青年だった。「まるで天井にぶつかる位のろしのやうに飛びあが」った青年は、赤ひげの足をすくって倒し、タイチを車室の中に引っぱり込んで赤ひげのピストルを奪ってそれを赤ひげの胸につきつけ、叫ぶのだ。

 「おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもおれたちだって仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉れ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから。」

 そして汽車は動き、赤ひげの男は船乗りの手をちょっと握って汽車から飛び降り、船乗りはピストルを窓の外へ放り出した。

 一件落着。めでたしめでたし。

 だろうか。船乗りの理屈に納得できる読者はどれくらいいるのだろうか。そもそも「生きてゐるものがきものを着る」ことと「おまへ(熊)たちが魚をとる」ことは等価だろうか。タイチが身にまとうラッコ裏の内外套、海狸の中外套、黒狐表裏の外外套、氷河鼠の頸の毛皮だけでつくった上着は「生きてゐる」ために必要なものでさえない。毛皮の外套は、極北に近い土地に狩りをしに行くために必要となったので、日常の生活になくてはならぬものだったとは思えない。極寒の地に狩りに行くためにしても、ここまでたくさん身にまとう必要はないだろう。

 それにたいして、熊たちにとって、魚をとることは生存の条件として絶対である。獲物をとって食べなければ生きていけないのだ。金持ちが道楽で毛皮を取るために動物を殺す行為と、熊が生存のために魚を殺す行為とを同じ秤ではかることはできない。金持ちの道楽のために殺される動物にむかって、殺す金持ちの側についたとりなし役が、あんまり無法に殺さないよう、すなわち適当に殺すようにするから、今回は許してくれ、という理屈が通用するのだろうか。

 不思議なことに、こんな、人間にとってだけ都合の良い理屈が、熊たちに通用したのである。思うにこれは、中沢新一がいうような「圧倒的な非対称」にある人間と動物の関係について寓喩した話ではない。では、何の寓喩なのか、これが難問なのである。

 そもそも「タイチ」とは何者か。タイチが若者に

 「ふん。バースレイかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが、外套を一枚お貸し申すとしようぢゃないか。黄色の帆布一枚ぢゃどうしてどうして零下の四十度をふせぐもなにもできやしない。」

と話しかける場面がある。この「バースレイ」についてあれこれ調べたら、berth  layのことのようである。船が波止場に繫留されている状態で、停泊休暇を意味するようだ。それにしても、タイチはなぜ黄色の帆布一枚の若者を見て停泊休暇の船乗りだと分かったのか。その後「黒狐だよ。なかなか寒いからね。」と続くのもわからない。

 「黒狐」もたんに「毛色の黒い狐」を意味するものではない。中国明代のエンサイクロペディア「三才図絵」によると、黒狐は北山に住む神獣で、王者が天下を平定した時に現れるとされる。滅多に姿を現すものではない。というか、伝説の世界の瑞獣である。タイチは黒狐の毛皮を九百枚取ってくるというが、どうやって取るのだろうか。それとも、タイチのいう黒狐は、カナダ、シベリアなどに生息するという銀狐=シルバーフォックスのことなのか。

 標題になっている「氷河鼠」の頸の毛皮というのもまたよくわからない。氷河鼠とは、北極圏に住むレミングという鼠のことだろうか。レミングは体長七センチから十五センチの鼠で、冬眠せず旺盛な食欲と繁殖力をもつが、三~四年周期で個体数が増減するそうである。こちらはうまくすれば、四五〇匹ないし百十六匹捕まえることは可能かもしれないが、こんなちいさな動物の頸の皮だけで外套を作る意味がわからない。

 要するに、タイチの言っていることは意味をなさないのだ。たぶん、タイチは「注文の多い料理店』の英国風紳士や『オツペルと象』のオツペル、さらに『ポランの広場』の山猫博士と発展していくキャラクターだろうが、「タイチ」という固有名詞が意味するものは何か。そして、黄色の帆布の若者が超人的な能力を発揮して、富と権力をひけらかす鼻持ちならないタイチを助けたのは何故だろう。

 タイチという固有名詞と黄色の帆布の若者との関係はひとまず措いておく。最終的に『ポランの広場』の山猫博士(謎の多い存在だが)へと行き着く「タイチ」というキャラクターは新興産業資本家のそれだろう。「ベーリング行最大急行」の乗客は資源獲得にむらがって、寒風吹きすさぶ停車場の暖炉の前に「まっ黒に立ってゐる」人たちだった。役人や商人も混じえた人々の群れの中で、もっとも強欲ぶりを発揮していたのがタイチだった。

 タイチが強欲な新興資本家の典型として描かれているとすれば、「熊」という言葉で表現されているものは何か。自然界の生物としての熊そのものではないだろう。熊だか人間だかわからない「もの」が汽罐車に闖入してきたことを「パルチザンの襲撃」と解釈した評者がいたように思うが、私の解釈もそれに近い。

 資源を搾取する側とされる側が「圧倒的な非対称」の関係にあることはいうまでもない。「非対称」は動物と人間の関係だけでなく、というよりむしろ、まず人間同士の間に「圧倒的非対称」=差別は在する。「ベーリング行最大急行」に闖入してきた「二十人ばかりのすざまじい顔つきをした人」は搾取され、差別される側のゲリラではないか。賢治が、「どうもそれは人といふより白熊といった方がいゝやうな、いや白熊といふよりは雪狐と云ったほうがいいやうなすてきにもくもくしたした毛皮を着た、いや着たと云ふよりは毛皮で皮ができているというた方がいゝやうな、もの」と、饒舌にことばを重ねながら、闖入者を描写しているのが興味深い。結局その集団は「人といふより…………、もの」とされるのだが。

 では、汽罐車に闖入してきたゲリラからタイチを守った黄色の帆布の若者は何者なのか。ゲリラを先導した赤ひげの男は、船乗りにピストルを奪われ、突きつけられながらも、去り際に「笑ってちょっと」彼の手を握るのだ。赤ひげは、タイチの側すなわち資本家の側について体制と秩序を守った船乗りに対して、微かな和解の意をしめしたのである。船乗りの若者は「ベーリング行最大急行」の乗客たちとは距離をおきながら、ゲリラの側にはつかず、身を挺してタイチを取り戻した。黄色の帆布の若者は、タイチを守るために「ベーリング行最大急行」に乗っていたかのようである。

 最後に「タイチ」という固有名詞について考えてみたい。「タイチ」は漢字で書けば「太一」だろう。「太極」かもしれない。いずれにしろ、宇宙、万物の根元であり、さらに北極星を指すともいわれ、古代中国において祭祀の対象になっていた。金に埋もれた資本家に賢治が「タイチ」という名をつけたのは何故だろう。船乗りの若者が「黄色」の帆布をまとっていたこととあわせて、私に仮説があるが、いま、ここで書くのは控えたい。

 例によって独断と偏見でいえば、この作品は尻切れトンボで中途半端な革命譚である。そのことは作品自体が尻切れトンボで中途半端であるという意味ではない。いうまでもなく。そのような、「革命」ともいえないような、ゲリラ戦すら実行できない状況を切り取って、賢治は緊迫感あふれる短編に仕上げたのである。

 前回の投稿から随分時間が経ってしまいました。賢治の作品はどれも難解ですが、その理由の一つが、彼の生きた時代の状況が私の中でもう一つつかみきれないということです。私が怠惰で非力であるということなのですが。今日も不出来な文章を最後までよんでくださってありがとうございます。

2022年12月18日日曜日

宮澤賢治『風の又三郎』__最後に残る二つの謎__高田三郎と宮澤賢治

  この後の月曜日、一郎と嘉助が嵐の中登校して、三郎が転校したことを告げられる。嘉助は先生に挨拶するとすぐ、「先生、又三郎きょう來るのすか。」ときいている。先生が告げるまでもなく、もう三郎は来ないことを嘉助も一郎も知っているのだ。

 九月一日に現れて、(おそらく)十一日に去って行った高田三郎。三郎が「風の又三郎」かどうか、という問いに対して、じつは私はほとんど関心がない。嘉助がまず最初に「又三郎」と呼び、子どもたちもみなそう呼んだ。それで十分である。物語の中で、高田三郎は、モリブデンの発掘という仕事をする父親とともに、谷川の小学校に現れた。モリブデン発掘が中止になったので、村を去った。それ以上でもそれ以下でもない。

 『風の又三郎』という作品を、東北地方にあるという「風祭り」と関連づけたり、又三郎を「風の神」としてとらえる民俗学的アプローチもあるようだが、いまの私は、そのようなアプローチには組したくない。

 少し、興味を覚えるのは、「鼻のとがった人」がステッキのようなもので川の浅瀬を調べていたことと、モリブデンの発掘が関係があるのかもしれない、ということである。だが、これも、さほど重要なことではないかもしれない。

 私がどうしても解決できない謎が二つある。一つは、三郎を極度におびえさせたシュプレヒコールの発端となった

 「雨はざっこざっこ雨三郎、
 風はどっこどっこ又三郎。」

と叫んだのは誰か、ということである。本文では「すると、だれともなく、「雨は…。」と叫んだものがありました。」と書かれている。「叫んだもの」は人なのか、それとも作者はそうでないものを想起させたかったのか。

 この後すぐ、「みんなもすぐ声をそろえて叫びました。」と書かれているので、シュプレヒコールを発したのは子どもたちである。三郎が「いま叫んだのはおまえらだちかい。」ときくと「そでない、そでない。」と「みんないっしょに叫びました。」と、これも子どもたちがいっせいにそう叫んだのだ。

 最初に叫んだのが人か何かわからないが、次にシュプレヒコールを浴びせたのはあきらかに子どもたちである。だが、三郎の問いにみんなで声をそろえて否定する。またもやぺ吉が出て来て「そでない。」とだめ押しする。

 シュプレヒコールの威力は、集団の暴力である。多数の者がいっせいに声を出すことで、コミュニケーションを切断するのだ。前日は、一郎の音頭で子どもたちがシュプレヒコールを浴びせ、正体不明の鼻のとがった人を追い払った。この場面では一郎も集団のなかに埋没している。嘉助も耕助も「みんな」のなかである。三郎ひとり、「みんな」と対峙しなければならない。淵から上がった三郎のからだががくがくふるえていたのは、寒さと恐怖と、絶望的な疎外感のためだったのではないか。 

 もう一つわからないのは、物語の最期の段落の始めに

 「どっどど どどうど どどうど どどう
  青いくるみも吹きばせ
  すっぱいかりんも吹きとばせ
  どっどど どどうど どどうど どどう
  どっどど どどうど どどうど どどう

 先ごろ、三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中でまたきいたのです。」
と書かれているのだが、本文中どこをさがしても、三郎が一郎あるいは子どもたちにこの歌を歌ってきかせている箇所はない。たしかなことは、一郎は「夢の中でまた」その歌をきいた、ということである。

 ここからは一郎と風の物語である。

 「馬屋のうしろのほうで何か戸がぱたっと倒れ、馬はぷるっと鼻を鳴らしました。一郎は風が胸の底までしみ込んだように思って、はあと息を強く吐きました。そして外へかけだしました。
 外はもうよほど明るく、土はぬれておりました。家の前の木の列は変に青く白く見えて、それがまるで風と雨とで今洗濯をするというように激しくもまれていました。
 青い葉も幾枚も吹き飛ばされ、ちぎれた栗の青いいがは黒い地面にたくさん落ちていました。空では雲がけわしい灰色に光り、どんどん北のほうへ吹きとばされていました。
 遠くのほうの林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっと聞こえたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物をもって行かれそうになりながら、だまってその音をききすまし、じっと空を見上げました。」

 まさに「青いくるみも吹きとばせ。すっぱいりんごも吹きとばせ」の歌の通り、風が猛威をふるっている。すさまじくも美しい破壊と浄化の自然現象である。一郎は全身でそれをうけとめている。

 「すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれどもまたじっとその鳴ってほえてうなって、かけて行く風をみていますと、今度は胸がどかどかとなってくるのでした。」

 一郎の中で何かが起きている。何かが一郎の中を通過して、一郎を昂揚させている。

 「きのうまで丘や野原の空の底に澄み切ってしんとしていた風が、けさ夜あけがたにわかにいっせいにこう動き出して、どんどんタスカロラ海溝の北のはじをめがけて行くことを考えますと、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあとなって、自分までもがいっしょに空を翔けて行くような気持ちになって、大急ぎでうちの中へはいると胸を一ぱいはって、息をふっと吹きました。」

 「きのうまでしんとしていた」風が動きだした、ということ、それが一郎を昂揚させ、自分まで北をめざして空を翔けるような気持ちにさせたのだ。破壊と浄化、そして飛翔。変革への期待で一郎は「顔がほてり、息もはあはあと」なる。それは別離でもあったが。 

 「風の又三郎」を「見た」のは嘉助だったが、一郎は「風の又三郎」と「生きた」のだった。

 だが、いまさらながら「風の又三郎」とは何か。また「高田三郎」とは何か。「風の又三郎」とは何か、の問いに答えることはいまの私には不可能に近い。「高田三郎」については、何の検証もできていないが、ある仮説がある。作者宮沢賢治の分身ではないかと考えている。賢治が作品の中で「風」をどのように扱ってきたかをもう一回見直してみたいと思っている。

 七転八倒しながらやはり尻切れとんぼの結論になってしまいました。私にとって「風の又三郎」はあまりにも難解です。力不足、と言われればその通りなのですが。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 


 

 

 


 

 

 

 

  この後、一郎と嘉助が嵐の中登校して、三郎が転校したことを告げられる。嘉助は先生に「先生、又三郎きょう來るのすか。」ときいている。もう三郎は来ないことを嘉助も一郎も知っているのだ。


 九月一日に現れて、(おそらく)十一日に去って行った高田三郎。三郎が「風の又三郎」かどうか、という問いに対して、じつは私はほとんど関心がない。嘉助がまず最初に「又三郎」と呼び、子どもたちもみなそう呼んだ。それで十分である。物語の中で、高田三郎は、モリブデンの発掘という仕事をする父親とともに、谷川の小学校に現れた。モリブデン発掘が中止になったので、村を去った。それ以上でもそれ以下でもない。

 『風の又三郎』という作品を、東北地方にあるという「風祭り」と関連づけたり、又三郎を「風の神」としてとらえる民俗学的アプローチもあるようだが、いまの私は、そのようなアプローチには組したくない。

 少し、興味を覚えるのは、「鼻のとがった人」がステッキのようなもので川の浅瀬を調べていたことと、モリブデンの発掘が関係があるのかもしれない、ということである。だが、これも、さほど重要なことではないかもしれない。

 私がどうしても解決できない謎が二つある。一つは、三郎を極度におびえさせたシュプレヒコールの発端となった

 雨はざっこざっこ雨三郎、
 風はどっこどっこ又三郎。」

と叫んだのは誰か、ということである。本文では「すると、だれともなく、「雨は…。」と叫んだものがありました。」と書かれている。「叫んだもの」は人なのか、それともそうでないものを想起させたかったのか。

 この後すぐ、「みんなもすぐ声をそろえて叫びました。」と書かれているので、シュプレヒコールを発したのは子どもたちである。三郎が「いま叫んだのはおまえらだちかい。」ときくと「そでない、そでない。」と「みんないっしょに叫びました。」と、これも子どもたちが一斉にそう叫んだのだ。

 最初に叫んだのが人か何かわからないが、次にシュプレヒコールを浴びせたのはあきらかに子どもたちである。だが、三郎の問いにみんなで声をそろえて否定する。またもやぺ吉が出て来て「そでない。」とだめ押しする。

 シュプレヒコールの威力は、集団の暴力である。多数の者がいっせいに声を出すことで、コミュニケーションを切断するのだ。前日は、一郎の音頭で子どもたちがシュプレヒコールを浴びせ、正体不明の鼻のとがった人を追い払った。この場面では一郎も集団のなかに埋没している。嘉助も耕助も「みんな」のなかである。三郎ひとり、「みんな」と対峙しなければならない。淵から上がった三郎のからだががくがくふるえていたのは、寒さと恐怖と、絶望的な疎外感のためだったのではないか。 

 もう一つわからないのは、物語の最期の段落の始めに

 「どっどど どどうど どどうど どどう
 青いくるみも吹きばせ
 すっぱいかりんも吹きとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう
 どっどど どどうど どどうど どどう

 先ごろ、三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中でまたきいたのです。」と書かれているのだが、本文中どこをさがしても、三郎が一郎あるいは子どもたちにこの歌を歌ってきかせている箇所はない。たしかなことは、一郎は「夢の中でまた」その歌をきいた、ということである。ここから終末までは一郎の物語である。

 一郎は歌をきいてはね起きる。外は激しい嵐で、くぐり戸をあけるとつめたい雨と風がどっとはいって來る。ここから岩波文庫版で一頁あまり一郎と嵐の情景が描写される。

 「馬屋のうしろのほうで何か戸がぱたっと倒れ、馬はぷるっと鼻を鳴らしました。
 一郎は風が胸の底までしみ込んだように思って、はあっと息を強く吐きました。そして外へかけだしました。
 外はもうよほど明るく、土はぬれておりました。家の前の栗の木の列は変に青く白く見えて、それがまるで風と雨とで今洗濯をするとでもいうように激しくもまれていました。
 青い葉も幾枚も吹き飛ばされ、ちぎれた青いくりのいがは黒い地面にたくさん落ちていました。空では雲がけわしい灰色にひかり、どんどん北のほうへ吹き飛ばされていました。
 遠くのほうの林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっときこえたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物をもって行かれそうになりながら、だまってその音をききすまし、じっと空を見上げました。」

 まさに「青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ」と風が猛威をふるっている。自然が、すさまじくも美しい破壊と浄化のかぎりをつくしている。一郎はその中に立って、全身でそれをうけとめている。

 「すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれどもまたじっとその鳴ってほえてうなって、かけて行く風をみていますと、今度は胸がどかどかとなってくるのでした。」

 一郎のなかで何かが変化している。「胸がさらさらと波をたてるよう」「胸がどかどかとなってくる」。何かが一郎を昂揚させている。

 「きのうまで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風が、けさ夜あけ方にわかにいっせいのこう動き出して、どんどんタスカロラ海溝の北のはじをめがけて行くことを考えますと、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあとなって、自分までがいっしょに空を翔けて行くような気持ちになって、大急ぎでうちの中へはいると胸を一ぱいはって、息をふっと吹きました。」

 タスカロラ海溝の北のはじをめがけて、風が動いている。その風と自分が同化していっしょに空を翔けている、という一体感が一郎を昂揚させている。もちろんそれは一瞬の幻覚にすぎず、翔けて行ったのは又三郎だ、と直感するのだが。

 さて、それで、いまさらだが、「風の又三郎」とは何か。子どもたちから「又三郎」と呼ばれた高田三郎とは何か。私自身は、作者宮沢賢治の分身が高田三郎である、という仮説をたている。その仮説から「風の又三郎」について、というより「風」について、賢治が作品のなかで「風」をどうあつかってきたかを検証してみたいのだが、いかんせん力不足、というよりほかない現状である。「風」がなぜ「北」をめざすのか、ということだけでも追いかけてみたいのだが。

 七転八倒して、尻切れとんぼの決論になってしまいました。この作品については、まだ言わなければならないことがあるように思うのですが、思いを言語化するのにもう少し時間がかかりそうです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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2022年12月16日金曜日

宮澤賢治『風の又三郎』__高田三郎はいかにして鬼になったか

  三郎と子どもたちが葡萄と栗を交換したエピソードの次に語られるのは、少し複雑で難解な出来事である。

 「次の日は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところが今日も二時間目からだんだん晴れてまもなく空はまっ青になり、日はかんかん照って、お午になって一、二年が下がってしまうとまるで夏のように暑くなってしまいました。」

と書き出されるが、「次の日」が葡萄蔓とりの翌日のことなのか、よくわからない。「今日も二時間目からだんだん晴れて」とあるので、たぶん連続した日の出来事なのだろう。真夏のような暑さで、授業が終わると、子どもたちは川下に泳ぎに行く。「又三郎、水泳ぎに行かないが。」と嘉助に誘われ、三郎もついて行く。昨日の葡萄蔓とりには「三郎も行かないが。」と誘った嘉助が、今日は「又三郎」と呼びかけていることを覚えておきたい。

 勢いこんで水に飛び込み、がむしゃらに泳ぎ始めた子どもたちを三郎がわらい、その三郎が、今度は水にもぐって石をとろうとして息が続かず、途中で浮かびあがってきたのを見た子どもたちがわらう、という場面の後、発破を仕掛ける大人たちが登場する。庄助という抗夫が発破をしかけ、ほかの大人たちは網を持ったりして、水に入ってかまえる。だが、彼らが狙った獲物はかからず、流れてきた雑魚を取った子どもたちが大よろこびする。

 発破の音を聞きつけて、また別の大人たちが五六人、そのあとにはだか馬に乗った者もやってくる。そのとき、「さっぱりいないな。」とつぶやく庄助のそばへ三郎が行って、「魚返すよ。」といって二匹の鮒を河原に置く。「きたいなやづだな」といぶかる庄助と魚を置いて帰ってくる三郎を見て、みんながわらう。収獲がないので、大人たちが上流に去ると、耕助が泳いで行って三郎の置いてきた魚を持ってくる。みんなはそこでまたわらう。

 「発破かけだら、雑魚撒かせ。」と嘉助が雄たけびをあげる。子どもたちは雑魚だろうが何だろうが、魚がとれたことが無条件にうれしいのだ。食べ物が手に入ったのだから。だが、三郎にとっては、手放しでよろこべることではなかった。発破をかけて魚を取ること自体が違法行為であり、そうやって手に入れた魚は発破を仕掛けた者の所有物である、と考えたのかもしれない。とりあえず、魚を返すことで違法行為と関わりを断っておきたかった。泥棒といわれたくない、という自尊心もあったかもしれない。

 雑魚を返しに行く三郎の遵法意識が庄助に通用せず、いぶかられたのを見て笑った子どもたちにあるのは「食べ物が手に入ればうれしい」という徹底した現実感覚であり、論理である。三郎が返しに行った魚を取り返しに行くのが、葡萄蔓とりの耕助である。くちびるを紫いろにして葡萄をためこんでいた耕助がまたしても魚を取り返しに行く。子どもたちにとって「食」は無前提に優先されるが、三郎はそうではない。行動の当為が問題なのだ。子どもたちと三郎の隔たりをうみだすものは、飢えとの距離感だろう。

 だが、この時点では、いくぶんかの齟齬はあるものの、三郎が子どもたちから疎外されていたというわけではない。むしろ、一郎の指揮下子どもたちは、見知らぬ大人の侵入を警戒して、三郎を守ろうとするのである。

 発破騒ぎのあと、「一人の変に鼻のとがった、洋服を着てわらじをはいた人」が登場する。ステッキのようなもので生け洲をかきまわしている。佐太郎が「あいづ専売局だぞ。」と言い、嘉助も「又三郎、うなのとった煙草の葉めっけたんで、うな、連れでぐさ来たぞ。」と言う。「なんだい。こわくないや。」と三郎は言うが、「みんな、又三郎のごと、囲んでろ。」と一郎の指示で、三郎はさいかちの木の枝のなかに囲まれる。

 ところがその男は三郎を捕まえる気配もなく、川の中を行ったり来たりしている。子どもたちの緊張はとけたが、男のしていることの意味がわからない。それで、一郎が提案して、みんなで男に叫びかける。「あんまり川を濁すなよ、いつでも先生言うでないか。」このシュプレヒコールは三度くり返され、男は「この水飲むのか。」「川を歩いてわるいのか。」と子どもたちに問いかけるが、最後まで子どもたちは「あんまり川を濁すなよ、いつでも先生言うでないか。」とシュプレヒコールで返すだけだった。

 四度目のシュプレヒコールの後、男が去ると、子どもたちは何となく「その男も三郎も気の毒なようなおかしながらんとした気持ちになりながら」木からおりて、魚を手に家路についたのだった。

 子どもたちの生活世界のなかに、大人が侵入してくる。発破をしかけた一味と、それを見にきた集団。それから、目的不明で現れた「鼻のとがった人」。それらが、三郎と子どもたちの関係に微妙な波紋を投げかける。

 翌日、佐太郎が、発破の代わりに毒もみに使う山椒の粉を学校に持ってくる。山椒の粉は、それを持っているだけで捕まるというしろものである。この日の朝の天候は書かれていないが、「その日も十時ごろからやっぱりきのうのように暑くなりました。」とあるので、三日連続で夏のような天気が続いたことになる。授業が終わるのも待ち遠しく、子どもたちはさいかちの木の淵に急ぐ。佐太郎は耕助などみんなに囲まれて、三郎は嘉助とともに行ったのである。

 淵の岸に立って、佐太郎が一郎の顔を見ながら、差配する。佐太郎は、山椒の粉が入った笊を持って行って、上流の瀬で洗う。子どもたちはしいんとして、水を見つめている。三郎は水を見ないで、空を飛ぶ黒い鳥を見ている。一郎は河原に座って、石をたたいている。

 だが、いつまでたっても魚は浮いて来なかった。「さっぱり魚、浮かばないな。」と耕助がさけび、ぺ吉がまた「魚さっぱり浮かばないな。」と言うと、みんながやがやと言い出して、水に飛び込んでしまう。きまり悪そうにしゃがんでしばらく水をみていた佐太郎は、やがて立ち上がって「鬼っこしないか。」と言う。そうして、この「鬼っこ」が修羅場になる。

 つかまったりつかまえられたり、何遍も「鬼っこ」をするうちに、しまいに三郎一人が鬼になる。三郎が吉郎をつかまえて、二人でほかの子たちを追い込もうとするが、吉郎がへまをしたので、みんな上流の「根っこ」とよばれる安全地帯に上がってしまう。嘉助まで「又三郎、来」と、口を大きくあけて三郎をばかにする。さっきからおこっていた三郎はここで本気になって泳ぎ出す。これまで三郎をエスコートしてきた嘉助に裏切られたと思ったのだ。

 そして、みんなが集まっている「根っこ」の土に水をかけ始める。「根っこ」は粘土の土なので、だんだんすべって来て、集まっていた子どもたちは一度にすべって落ちてくる。三郎はそれをかたっぱしからつかまえる。一郎もつかまる。嘉助一人が逃げたが、三郎はすぐ追いついて、つかまえただけでなく、腕をつかんで四、五へん引っぱりまわす。水を飲んでむせた嘉助は「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と言う。ちいさな子どもたちは砂利の上に上がってしまい、三郎ひとりさいかちの木の下にたつ。三郎は一人ぼっちになってしまったのだ。

 三郎が一人鬼になってしまったのは偶然である。「鬼っこ」を始めたのも、毒もみ漁が上手くいかなかった佐太郎の思い付きだ。だが、鬼になった三郎が子どもたちを一網打尽にしたのは偶然ではない。彼がなみはずれた体力と知力をもっていたからである。そもそも、上の野原で逃げた馬を追って、馬といっしょに現れたのは三郎だった。

 その能力が怒りと結びついたとき、「鬼っこ」は修羅場と化した。天気も一変する。空は黒い雲に覆われ、あたりは暗くなり、雷が鳴りだす。轟音とともに夕立がやって来て、風まで吹きだす。

 さすがに三郎もこわくなったようで、さいかちの木の下から水の中に入って、みんなのほうへ泳ぎだす。そこへだれともなく、叫んだものがある。

 「雨はざっこざっこ雨三郎 
 風はどっこどっこ又三郎。」

すると、みんなも声をそろえて叫ぶのだ。

 「雨はざっこざっこ雨三郎、
 風はどっこどっこ風三郎。」

 前日鼻のとがった人を追い払ったシュプレヒコールがここでも繰り返される。さらに、動揺した三郎が「いま叫んだのはおまえらだちかい。」ときくと、みんないっしょに

 「そでない。そでない。」

と叫ぶのだ。その上、ぺ吉がまた出て来て

 「そでない。」

と言う。

 三郎は、いつものようにくちびるをかんで、「なんだい。」と言うが、からだはがくがくふるえている。

 「そしてみんなは、雨のはれ間を待って、めいめいのうちへ帰ったのです。」と結ばれて、高田三郎の物語は終わる。

 高田三郎の物語はここで終わります。一郎と嘉助、そして村の子どもたちについては、もう少し考えてみたいことがあるのですが、長くなるので、また次回にしたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。